文明の源流日記


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2004年3月30日(火)[16:28:04]  
源流協議会の平成15年度決算報告書を作成に向けて、会計監査のため、塩山市の吉田収入役に会う。我が家のおばあちゃんと家内が完璧な帳簿を作成してくれたのでなんの心配もなく、内容的には全く問題なかったが、利子の5円を予算に計上するのを忘れてしまって、やり直しになった。参った、参った。曇りのち雨であるが、気温はそこそこ高く推移し、春への足取りは速い。夜は、川崎のせせらぎ館で「多摩川リバーミュウジアム」運営委員会が開催されるので参加する。

 引き続き「一ノ瀬川実踏調査」を紹介する。 
心に刻まれた第三の’通らず’

 4人のグループが出発したので、我々も彼らの後を追うように遡上を開始した。第2の通らずの上流部分は2個所、3個所に深い淵を開いていたが、5〜6bのところを高まきして、通過していく。いよいよ第3の通らずが目の前に現れた。ここは光が良く射し込んで、見通しがよく流れも比較的穏やかだった。左岸は垂直というより、やや傾斜の緩い絶壁に岩一面に青々とした苔が覆っていた。カメラバックの荷物が重くなってきたので、80oから200oの望遠のズームレンズを雨宮さんにもってもらうことにした。淵尻に右岸から突起した岩場があり、第3の通らず全体を写真に納めるところを確保できたので、実踏調査の様子をリアルに写し撮る。写真を撮っている最中に雨宮さんがバックをもって、遡上し始めた。深みにはまり、首まで水没する。背負っていたバックの中のズームレンズは水没。あっー、困ったと心の中でつぶやいた。愛用のズームレンズの寿命が尽きた。雨宮さんに手渡す時、水没させないでと告げることを忘れたのは自分自身、自らの不注意でレンズの命を絶ってしまった。
 第3の通らずを突破したプロ達が淵頭に辿り着いて、岩の上に誇らしげに立っていた。人物も入った第3の通らずの写真は、人間が存在することによって、一層V字谷の深さが引き立つことになった。岩の上の三脚が不安定なため、両手で三脚とカメラをしっかりと固定しながら、撮り続ける。心の中で、二度とこの場に立つことはないだろうという思いを秘めながら、通らずの写真を撮り続けた。早坂さんからライフジャケットを借りて、身体に縛り付け、胸元からの水の進入を防ぐ。淵が深すぎて、泳ぎながら上流に進むが、なかなか困難であった。右岸の岩にしがみつきながら、身体の水没をさけようとしたが、水面に近い岩肌は水に流されて滑らかで段差が少なく往生した。カメラバックを水面すれすれに平行移動しながら、10b近く移動して岩場に辿り着き、雨宮さんから手をとって引き上げてもらいほっとする。第3の通らずを過ぎると谷はやや開き、これまでに比較すると容易に上流に進むことができた。第4の通らずは右岸は通行不能であったが、左岸にはかすかな段差が見受けられ、用心しながら突破した。大常木谷の出合いについて、緊張感がいっきにほぐれた。ここからのルートは全て頭に入っている。右岸、左岸に徒渉しながら、浅瀬を渡っていく。15分近く進むと、右岸から山道が降りていた。馬の背に近い山道をふうふういいながら、よじ登ると東京都の水源林の林道にでた。時間は3時を過ぎていた。6時間に及ぶ一ノ瀬渓谷の実踏調査であったが、知られざる源流の姿をこの目で確かめることができた達成感と満足感で3人の心は充たされていた。


2004年3月29日(月)[17:50:31]  
昨日午後1時30分から東京駅八重洲口近くの八重洲ダイビルで「自然共生型流域圏・都市再生イニシアティブ」全国NPOキーパーソン集会が開催された。この集会には水環境北海道の佐伯昇さん、新潟水辺の会の相楽治さん、九州流域連携会議の駄田井正さん、徳島新町川を守る会の中村英雄さん、荒川流域ネットワークの恵小百合さん、コーディネーターの山道省三さん、国土交通省国土技術政策総合研究所環境研究部河川環境研究室長の藤田光一さんらが出席した。議論の中ではキーパーソンからの実践と提案の報告があり国総研によるシナリオ案が提出された。自然共生型・都市再生への流域NPOのアプローチに関してテーマとして観光、経済活性、舟運、森林再生、旧川運河・都市河川の再生、学習・教育、自然力の再活用などなどがあげられ、NPOができることとして川や流域に対する意識啓発、川や流域の再生への提言、アイデア化、人材育成、ボランティア・国民・市民の参加促進、大学の関わり、再生の為の職業づくり、流域ビジネスなどがあげられた。
 藤田さんからは普通の人にとって何が本当に問題なのか、長持ちする目的の立て方、普通の人のレスポンス、人がどう変わり広がるか、多くの人を動かすしくみなどの視点が大切であると提起された。中村英雄さんから川に人が来ると町が変わる。こういう町をつくろうという目標に多くの住民を巻き込むこと。自分たちの町を自分たちで再生しようとする意欲が最も大切。10年かけると流域の人が勝手に自分の周囲を良くし始める。河口域は汚れたら埋め立てられるがきれいになれば残していこうという声が自然にあがる。議論のまとめとして山道さんから自然共生型流域圏の分野では森林問題を都市再生の問題では旧川・運河・都市河川をそれぞれの分野でアプローチしていくことを確認。来年度に向けてそれぞれ企画案を提案することになった。
 源流研究所では「源流の四季」の最終校正、源流ファンクラブの名簿の整理と会報発送に向けての準備などを処理した。気温は20度近くまで上がり梅の花は満開、桜の蕾がむくむくと成長している。

2004年3月26日(金)[10:42:24]  
春の雨が続いている。菜種梅雨には早すぎるし、桜梅雨にもはやすぎる。朝、我が家を7時10分に二人で出発する。行きは彼女が運転してくれたので、こっくりこっくりしながら小菅に向かう。柳沢周辺には雪がうっすら積もっていた。
 源流研究所では、4月10日に開催される第3回源流研究所運営委員会に向けての準備に取りかかる。とりあえず、第1回運営委員会、第2回運営委員会の議案に目を通す。源流研究所を設立してからもうすぐ3年。特に交流事業に関しては初年度は、「源流・大菩薩」「源流古道・水源林体験の旅」「源流体験教室」、2年度は、「源流探訪シリーズ」、源流体験教室、タイアップ事業、3年目は、「源流探訪シリーズ」、源流体験教室、タイアップ事業、森林再生プロジェクト、干し柿体験、そばづくり体験、妙見五段探訪などと事業を拡大してきた。その足取りをしっかり分析してから来年度の課題と展望を考えていきたい。
 一ノ瀬渓谷実踏調査の続きを紹介する。
最大の難関・第二の’通らず’
 しばらく進むと激流の渦巻く難所に着く。第2の’通らず’である。青々とした淀んだ大きな淵はいかにも深く、淵頭は狭さくした岩の回廊を本流が一気に流れ下っている。上流の早さといい淵尻のよどみの深さといい、素人では到底登れない上流はあきらめざるをえなかった。3人で撤退の相談をしていると右岸の絶壁からザイルを使って、4名の沢登りのプロが川底に降り立った。そのうちの二人が左岸の岩陰にハーケンを打ち込みながら、岩壁をよじ登り、通らずの上流までまいていって、淵頭からバックフロートを流した。残りの2名はバックフロートに掴まりながら激流を逆らって、上流まで引き上げていくことになった。最後に残ったリーダーが我々の方をみて、「一緒に行きますか。」と声をかける。山梨県内ではこの第2の’通らず’を通過した人はたぶんいないだろう。プロがついていれば、なんとか道が開けるかもしれないと判断して、彼らと一緒に上流に行くことを決断した。始めに早坂さんがバックフロートに掴まりながら、無事に不気味な淵路を通過した。同様に、雨宮さんも激しい流れにからだを右左に流されながら、上流にたどり着いた。早坂さんも雨宮さんも荷物はほとんどなく、しかもバックは濡れても支障もない中身であた。ところが私の場合、カメラバックがある。カメラバックには朝日ペンタックス645が入っており、標準と広角と望遠の3本のレンズを携帯していたので、このカメラバックは水没はなんとしてもさけなければならない。先の2人はバックフロートに掴まって、上から引き上げてもらえば澄んだが、私の場合バックフロートの上にカメラバックを乗せて、それを支えるように平泳ぎをしながら上流に向かう。淵尻のよどみをおそるおそる平泳ぎで上流に辿り着くと、激流が発する轟音がすぐ近くにせまる。狂ったような状態の水面、白く煮えたぎるような水面がすぐある。途端ににバックが激流に飲まれて、右左に揺れる。水中の自分の身体のバランスを失いかける。胸からは水がしみこんできて、冷たい。冷たいところか、水中のバランスを整えないとカメラバックが危ない。失いかけたバランスを必死で立て直そうともがけばもがくほど、水圧はきつくない、ブレが激しくなった。どうにも身体の制御がきかない。カメラバックをバックフロートの上に維持することが難しくなった。その時グループのベテランが「流れに身をまかせろ。」と怒鳴る。「流れに逆らうな。」「身体のバランスだけとれ。」。そのアドバイスを受けて、身体の力を抜くと不思議なことにバックフロートの揺れが小さくなった。バックフロートに軽く掴まりながら、必死で平泳ぎする。目の前に3メートルの滝が流れ落ちており、轟音をあげながら、ものすごい勢いで水がまいていた。やっとの思いで左岸の縁に着いた。カメラも身体も無事だった。東京八王子の4人のグループに感謝する。彼らに出会わなければ、我々だけでの力量では、第2の通らずを突破することは不可能だった。淵頭から第2の通らずをのぞき込むと薄暗い光の中を白い竜心が駆け足で流れ下っていた。一ノ瀬渓谷の4つの’通らず’の中でこの第2の通らずが最大の難関と言えるだろう。


2004年3月25日(木)[17:41:19]  
源流研究所では、「源流の四季」の校正に没頭する。デザイナーが斬新なレイアウトを提示してくれたが、それが良し悪しで組み替えやレイアウトのやり直しなど大忙しであった。所長、井村主任研究員、中川徹君それに役場の奥秋一俊さん、譲君と総掛かりで目を通し、ミスを少なくする。
 宮林先生から全国源流シンポに関する講師の件で電話が入る。椎名誠さんにあたってみたいので全国シンポの開催要項をすぐに送ってほしいとのこと。毛利さんや椎名さんで何とかまとまると言い。
 「源流の四季」の校正が終了すると、源流・一ノ瀬渓谷の実踏調査のまとめを行う。所長の記録を整理整頓しながら、所長がまとめを読み上げると、井村主任が素早く打ち込んでくれる。彼女のお陰でこの間随分仕事がはかどった。今日が事実上井村主任の最後の仕事となる。この三年間本当に良く頑張ってくれた。心から感謝したい。彼女は小菅が好きで小菅の食文化の研究を積み重ねてきた。彼女には食文化という自らのテーマがある。大学で良い成績を残し、自らの専門を生かした道に進んでほしい。この小菅を舞台にした大いなる活躍を心からお祈りする。 一ノ瀬渓谷の実踏調査の記録の一部を順に紹介する。

’通らず’と呼ばれる悪場に挑戦

 朝、9時おいらん淵に車を止めて、胴長で身を固める。調査団は朝日新聞甲府支局デスクの早坂敏文さんと、多摩川源流観察会事務局長の雨宮清貴さんと私の3名である。迫りくるであろう予想しがたい困難にお互いに協力して立ち向かえるよう意志確認をする。一ノ瀬橋西詰を用心深く川底に降りる。急斜面を露出した木の根につかまりながら、川底に降り立つとそこは柳沢川と一ノ瀬川の合流地点である。右岸はややなだらかであるが、左岸は切り立った岩が不気味な圧迫感で迫ってくる。ここから、大常木谷との合流地点までの2qの間の難所に挑むことになる。
 川底から空を見上げると、空が細い帯のように見える。うっそうとした木々に遮られ、差し込む光は少ない。大きなV字谷の底にいる実感がひしひしと伝わってくる。登り初めてすぐに流れは左に折れる。小さな淵の淵尻を対岸に渡るのだが、流れが速く川底の石を一歩一歩踏みしめながら、対岸に渡る。40から50b進むと、150b位の直線の谷に入り込む。小さな淵を3つ、4つ過ぎると、深い青々とした淵に着く。右岸にザイルが張ってあり、用心しながら高まきをして上流に向かう。
 2時間ほど進んだとき、流れが急に速くなった。屏風のようにそそり立った岩壁と青々と澄んだ淵に思わず息を飲む。「いよいよ笹平の悪場に突入したな。」と直感する。この一ノ瀬渓谷には通行不能な’通らず’と呼ばれる難路が4個所あるが、その正体は知らなかった。ため息のでる位長い時をかけて、大地を刻んできたのであろうか。激しい水音に背筋が寒くなり、「これは無理だ。」と3人とも弱気をはいた。深い淵は通常壁にへばりついて進むか、淵を通過するのをあきらめて高まきして進むしかないが、この第1の通らずは垂直な一枚刃に覆われていて、進むに進めずここで撤退かと悩む。とその時、恐いモノ知らずの早坂さんが「中村さん泳いで渡りましょう。」と提案した。ダメで元々と果敢に挑戦を試みることにした。水深は2メートルを超えている。胴長を身につけていると胸元から水が進入し、身動きがとれなくなるので、胴長を脱いで、パンツ一枚で決行を試みる。
 夏とはいえ、源流の水は冷たい。その冷たさが身に染みる。腰までは我慢できるが、首まで沈めると、全身に震えがくる。「えーい。」と気合いを入れて、泳ぎながら上流に向かう。運良く大きな流木が淵を跨いでいる。淵頭は流れが速く対岸に容易に渡たれそうにないので、この流木に掴まりながら、対岸に渡り、岩場をよじ登って、無事第1の通らずを通過することができた。ちなみに、上流から第1の通らずをのぞき込むととてつもなく大きな洞穴がぽっかり口をあいて、待っているようで、吸い込まれそうになり、思わず後ずさりした。人間の進入を拒み続けてきた聖なる谷に喧嘩を売りにきた姿にしか見えないのかもしれないが、人間の力ではどうにも手に負えない巨大な自然の造形物に身体がただ圧倒される。
 身体が冷えてきたので、早めの昼食をとる。登山用のガスで湯を沸かし、セブンイレブンのおむすびと味噌汁、カップラーメンを3人で食べる。温かい食事のありがたさが身に染みる。少し身体が温まったところで、出発する。上流は両側に垂直に近い岩壁が続く険しいV字谷。全身し始めて、200から300bで深い淵に出会う。深すぎて、突破できないので、右岸の岩をよじ登る。小ピークから上流の岩壁を見ると、このルートでは途中で進めなくなると判断。一端降りて、対岸の急斜面を注意深くまいていった。

2004年3月24日(水)[15:01:01]  
昨日は、午前中東山梨合同庁舎で、地球温暖化推進委員の研修会があり、身近な生活の中での温暖化防止の取り組みの経験を交流した。生活の無駄をなくすこと、例えば、こまめに電気のスイッチを切ること、暖房の温度を低く押さえたり、冷房の温度を高く設定したり、ゴミを出さないようにすること、出したゴミの分別をきちんとすることなどなど周囲の人の理解を得られるよう自らが取り組むことなどを確認し合った。 
 源流研究所では、写真の整理、「欧州河川環境調査の旅」の仕上げに時間を割いた。中川君には、「小菅樹木百選」の企画書づくりを指示した。源流域全体のこれまでの研究を良く掴んで取り組むようお願いした。「欧州河川環境調査の旅」は、大体出来上がった。一部紹介する。

憧れのハイデルベルク到着

11月7日
 今日、いよいよ今回の河川環境欧州調査の旅の中で最も注目をしていた町のひとつハイデルベルグに到着する。ドイツはもともと古城の多い国として知られているが、このハイデルベルグは古城と学生の街として知られている。町の中心をネッカー川が流れ、その川に古くて美しい橋が幾本もかかり、夕陽に生える古城と煉瓦造りの古い橋は昔から旅情溢れる風景として多くの人々に愛されてきた。
 到着したその日の夜は、ガイドの高杉さんに連れられて、ハイデルベルグの旧市街の「歴史的学生居酒屋」に向かう。ホテルから14〜5分の歩きと聞いていたが、歩けど、歩けど目的地に着かず、歩きの苦手な方からは「ただ、歩けばいいというもんじゃない」などの苦情が出始める。しかし、歩いている道の両側には赤煉瓦色のしっとりとした町並みが延々と続き、その古い町並みは一つ一つに個性と特徴を刻んでおり、飽きさせる暇も与えないほどだった。キョロキョロ、その町並みを見続けていたら、いつの間にかその歴史的居酒屋に着いた。めいめいがそれぞれの料理を注文する。ワインとビールで乾杯する。すると、オルガンをひいていた伴奏者が日本人の一行だと気づいて、坂本九の「上を向いて歩こう」の伴奏を始める。我々が歌い始めると、店の中にいた常連客の人達も一緒に歌い始める。一緒に歌い始めると、その場の雰囲気が一瞬にして和やかになり、歌の威力に感心する。

 「最も有意義で楽しい旅の一つ」と鍔山先生

 鍔山先生が「高橋先生、今回の河川調査旅行は大変和やかですな。私が参加した河川調査の中では最も有意義で楽しい旅の一つです。先生ありがとうございました。」と口火を切る。田中さんは「何回も海外旅行をしているが、今回ほど印象に残る旅はない。特にラインの流れに触れ、ラインの川づくりに触れ、その川づくりに携わる一流の技術者や設計者の知見と技に触れ、今までの私たちの取り組みは一体何だったんだろうと大変な衝撃を受けました。」と話を続ける。北海道の香賀さんは「初めてのヨーロッパ旅行でこんな楽しい思いをさせていただき、感謝しています。風景は北海道とよく似た場所も多々ありましたが、町並みのすごさには感心しています。町を見る目、モノを見る目が変わってしまいました。」と感想を述べた。話が弾み、10名の調査団のメンバーが益々うち解けあい、親しくなっていくのが確認できた。話の中で、田中さんが突然「文明さんの奥さんは信じられないほど綺麗だよ」と発言すると、高橋先生はすぐに回答。「そんな話は信じられない。」一同が大笑いし、雰囲気が益々盛り上がっていた。ハイデルベルグのホテルに帰ると鍔山先生が「文明さん、これがうまいんだ」とニシンの酢漬けを賞味するよう勧める。一口食べてみると、これまで味わったことのない酸味の中にも香ばしい味に出合った。鍔山先生に言わせると知る人ぞ知る珍味らしく、先生はヨーロッパに来たときには必ず賞味するという。先生は何でもよく知っていると感心する。



2004年3月23日(火)[16:55:41]  
朝7時に二人で自宅を出発して、源流研究所に向かう。柳沢周辺では、積雪が14aから15aあり、今年一番の大雪であった。雨が少なかったので、恵みの雨というか恵の雪と言ったところであるが、通勤には雪解けが終了するまで厳しい日々が続く。特に、昼間に解けた雪が朝の寒さで凍結したとき。この時は、滑り始めると車の制御が聞かなくなる。恐ろしい目に遭うことになる。「暑さ寒さも彼岸まで」のはずであるが、今年は2月の暖冬から季節のリズムが狂ったようである。ここにきて、寒気が何回も押し寄せてくる。
 源流研究所では、「源流の四季」の校正、第1回全国源流フォーラムの校正、それから「森林再生プロジェクト」事業の写真の整理に取り組む。とくに、森林再生関係は、第1回、第2回、第3回、第4回、第6回と欧州河川調査で参加できなかった、第5回を除くそれぞれの写真を整理する。これから間伐の効果を視覚的に分かるものにまとめ上げていく必要があるが、同一個所を定点観察して、太陽の光量の増加と生態系の回復など具体的な変化を追跡していくことが大変である。密植のため、林床に草木が生えていない状況と間伐による生態系への影響を掴んでいきたい。いずれにしろ、一つ一つの取り組みを確実に整理して、形あるものにまとめていくことが必要である。
 

2004年3月22日(月)[11:42:08]  
宮崎への帰省は19日の金曜日に帰り、勝兄貴のお父さんのお通夜にでて、土曜日の葬儀に会葬しその日の内に東京に引き返し、佐緒里の引っ越しの手伝いという忙しいスケジュールであった。宮崎に帰ると兄弟に会える。両親は既にこの世にはいないが、両親の宝物は全員健在である。長男、次男、三男、長女、四男、そして五男の文明と真里、兄弟同様に育った従兄弟の憲ちゃん。この8名に姉の夫が加わり、9名がいつもわいわいがやがやと語り合うのであるが、大抵は私が欠けるので私が帰省した時に9名が揃うことになる。今は、冠婚葬祭の時以外は、なかなか全員はそろはない。みんながまだまだ元気なので、冠婚葬祭の際は、必ず帰ることにしている。いつもは、我妻も同行するのだが、今回は彼女は仕事の関係で宮崎に行けなかった。
 今日から、今年の4月から働くことになっている中川徹君が源流研究所にきた。そこで、源流研究所が何をしているか、どんな役割があるか、これからどんなことをめざすのか等に関して話をする。特に、源流域の自然、歴史、文化の調査研究、データの蓄積、情報の収集と発信、会報の発行と「源流写真展」の開催、そして、源流と流域との交流事業の推進、その柱は、「源流・大菩薩探訪の旅」「源流・水干探訪の旅」「源流古道・水源林体験の旅」、「源流体験教室」「森林再生プロジェクト」事業であり、その一つ一つの内容を紹介する。中川君には、早速、「第1回全国源流フォーラム」の報告集の校正をやってもらう。これがなかなか大変で、午後からは、これに集中していた。私の妻も、ボランティアで源流研究所の手伝いをしてくれることになっているので、一緒に源流研究所にきて事務所の写真の整理を手伝う。
 高橋先生、宮林先生、山道さんに相談して、第5回全国源流シンポジウムの記念講演の講師に関して幾人か候補者をあげてあたることになった。ここが決まらないと前に進まないので宮林先生に講師の確約に取り組んでもらうことになった。
 驚いたことに、今年の大雪が春の彼岸に訪れた。午前中から降り始め、夕方には道路につもり始めた。帰りの丹波渓谷、柳沢峠周辺は、水墨画の世界を見るように幻想的な世界が広がっていた。


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