文明の源流日記


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2006年11月22日(火)[13:16:24]  
 川崎市の多摩川研究チームが多摩川源流の研修・視察にやってきた。驚いたのは、全員が若い人々で熱心で意欲的。若いチームほど将来性があるのでこちらも熱心に対応した。

「命の源の供給源−源流の環境保全」(16)
小菅村との運命的な出会い

 今、多摩川源流研究所の所長として忙しい毎日を送っている。源流研究所は、人口995名の小さな山梨県小菅村が平成13年4月に設立した、源流を調査・研究の対象とした日本で始めての研究所である。何故、源流研究所が小菅村に生まれたのかといえば、平成12年4月に策定された「第3次小菅村総合計画」で打ち出された新しいむらづくりと深く関係している。この村は、昭和62年に「多摩源流まつり」を開始するなど早くから源流に着目したむらづくりを進めてきたが、今回の総合計画では、その方向を一層深化させ、源流をキーワードに、むらの将来像を「憩い、守り、集う源流のさと こすげ」と描き、「源流にこだわり源流での生活が謳歌できる村」づくりを本格的に推進する方針と方向を確定したのである。


2005年11月21日(月)[06:37:34]  
柳沢峠の風がとても冷たかった。今朝の気温は氷点下−5までさがっていた。晩秋とはいえ標高の高い山々はすっかり冬の装いに変わってきた。ついこの間まで、流域の親子を対象に源流体験に汗を流していたとおもっていたら、早いもので本格的な冬を迎えようとしている。今年は、どんな冬の表情を見せてくれるか楽しみだ。
 小菅村・源流研究所に着いたら廣瀬村長、青柳課長、奥秋リーダーを交えて村長室で今月末に開かれる全国源流の郷協議会の打ち合わせを行う。平成の大合併が進む中で河川の最上流の町村がどんどん吸収合併されている。このまま行くと源流から村や町が消えて、どこどこ市に変わる。源流の郷を存続させようと全国各地の源流の郷が結集する。源流には、きらりと光る村や町がよく似合う。 

「命の源の供給源−源流の環境保全」(15)
(4)小さな村のきらりと光る源流研究所

源流の美しさに魅せられ源流の虜に

 私は、今から23年前に、早春の山菜取り(ヤマウド・タラノメ)に多摩川の源流に足を踏み入れたのが、源流との出会いのきっかけであるが、豊かな森と清冽な流れに触れ、これは素晴らしい、こんなすごい源流があるんだと感心したことを鮮明に覚えている。そして、あとで詳しく触れるが、今から11年前に多摩川源流にある竜喰谷と出会ったことが、私の人生を変えてしまった。私はその日以来、その美しさに魅せられ、源流に惚れ込み、源流の虜になってしまった。13の滝が連続する竜喰谷、人間の進入を拒み続ける大常木谷、透明感溢れる清流を湛える泉水谷、妙見五段の滝や天狗棚沢など妖しい美しさに彩られた小菅川、牛金淵や坊主淵など歴史とロマンに満ちた丹波渓谷、奇岩と鍾乳洞を抱く日原渓谷、悠久の流れと豊かな森の三条谷、そして”通らず”という悪場が連続する一ノ瀬渓谷など、多摩川源流の隅々まで来る日も来る日も飽きることなく歩き回っている。


2005年11月18日(金)[06:20:41]  
山梨県塩山市、丹波山村、小菅村、東京都奥多摩長で構成する多摩川源流協議会で鹿の食害問題に取り組んでいる。鹿の食害が広がり森の下草が食い荒らされところによっては山肌の裸地化が進み表土の流失と崩壊が進むなど、事態が深刻化している中で、東京都は環境局が中心になり、鹿の生息の実態調査と真の個体の適正管理や治山対策が進み、森づくりフォーラムなど市民団体の取り組みも活発化しつつあるが、同じように深刻な食害の進む地域が未だ放置されている現状をどのように考えたらいいのか、その実状の調査に取り組んでいる。鹿に関する資料を収集するため、東京都庁の環境局を訪ねる。自然環境部森林再生の山下担当課長らが丁寧に対応していただき、県境を越えた取り組みの現状と必要な資料を頂いた。森林再生でも鹿対策でも東京都はどんどん対策が進んでいるが、山梨県は財政不足から見るべき対策はとられていない。同じ多摩川流域なのに県境を越えた取り組みの厳しさをひしひしと感じた。

「命の源の供給源−源流の環境保全」(14)
水や森林資源は流域社会共有の財産

 東京市民に直接責任を持つべき東京市がその経営にあたるべきだと決断した東京市の二代目市長の尾崎行雄は森林の持つ水源涵養機能や土砂流失防止機能を活用してこの問題を解決すべき「給水百年の計」の方針を立て、源流域の山々を次々と買い取って、本格的な水源涵養林の経営を開始した。東京都が管理する水源涵養林は、塩山市一ノ瀬高橋、丹波山村、小菅村、奥多摩町の4市町村の21,635ヘクタールに及ぶ面積をもっている。こうして一世紀に渡り水源林として大切に維持管理されてきたため、自然度の高い天然林をはじめ手つかずの自然が広範に残されている。首都圏のすぐ近くに多様な生き物が生息し豊かな自然が存在することは奇跡に近い。この手つかずの自然環境や水・森林資源は、多摩川流域全体の貴重な宝であり流域社会共有の財産といえよう。現在、山梨県と東京都との県境の行政上の壁は、情報の壁となり連携の壁となるなど解決すべき課題は残されているが、市民サイドでは、源流から河口までの市民が参加して組織された多摩川流域ネットワークが、あらゆる壁を乗り越えて交流と連携の輪を広げその組織を強めている。


2005年11月17日(木)[02:24:27]  
川崎市多摩区のせせらぎ館で第2回「木帯編み」を開く。講師は小菅村のゆうゆうクラブで木帯編みを研究している小泉みつるさん。川崎の多摩川エコミュージアムが源流からのお願いを受け止めてくれて鈴木真智子さんたちがこの講座を開催してくれて、開催されているもの。多摩川と語る会の田中喜美子さん、酒井さん、川崎水辺の学校の佐々木さんなど熱心な源流ファンが参加してくれた。先生の指導で木帯でバスケットを編み上げていく。2時間ほどかけて、それぞれ立派なバスケットができあがる。やっている間は、みんな真剣な顔で、会話を止まるほどなんな集中していた。この取り組みが流域全体に広がるように頑張りたい。

2005年11月16日(水)[01:47:38]  
年をとると、仕事がたまっているとゆっくり眠れなくなる。朝5時半に目が覚めたので、全国源流の郷協議会の設立の趣旨と規約などの訂正と練り直しをやる。一字一句に心を込めて練り上げていく。平成の大合併の中源流の郷がどんどん消えていくが、源流保全への熱い思いまで消してはならないと思う。源流から河口までを視野に入れて流域保全の取り組みがいよいよ大切になるなか、流域のシンボルである源流の郷を存続させていきたいと強く願う。こうした思いを込めて設立の趣旨を練りあげていった。午前中は、川崎法人会のご一行・37名がお見えになった。いつも森林再生プロジェクトのボランティアに参加している堀江さんが研修の場として小菅を推薦して実現したものだったので、小菅のゆでの挨拶には力がこもった。ただ中央道の集中工事の渋滞で到着が遅れたので、あまり時間が取れなかったのが、残念である。
 午後は、川崎・せせらぎ館で多摩川流域懇談会が開かれたので、出席した。第二十回の多摩川セミナーに関する打ち合わせを行った。行政側から、国土交通省、東京都、川崎市が、市民側から多摩川流域ネットワークの長島、中村、倉持、鈴木の4名がそれぞれ参加した。多摩川の治水、利水、河川環境整備を市民と行政のパートナーシップでどう推進していくか、そのための仕組みが少しづつ進みつつある。 

「命の源の供給源−源流の環境保全」(13)

水源地を調査し水源林経営へ

 ところで、この源流部一帯は東京都の水道水源涵養林として都の管理下にある。明治の半ばに多摩川の下流域では、洪水と渇水、濁流と水不足が頻発し、多摩川の水を飲料水として利用していた東京市民にとって大きな問題となった。明治33年、千家東京府知事は、源流域の森林荒廃を憂慮して、東京帝国大学教授の本多静六林学博士に、多摩川水源地の現状調査を依頼した。
 本多教授は「水源地の森林状態は甚だ危機に瀕しており、その経営を怠れば
1)東京市の飲料水はたちまちにして欠乏をきたす事
2)府下三郡の農地数千町歩の灌漑用水に不足を生じること、
3)土砂の流失、洪水の氾濫頭により、国土保全に由々しき大事となること」
を報告書にまとめ上げ府知事に提出した。東京府は、この提言を受けて明治34年、小菅村、丹波山村などの御料林を買い取り水源林経営を開始した。

2005年11月15日(火)[13:48:45]  
多全国源流の郷協議会の組織が今月30日に設立総会を予定しているが、その会員を増やすために、小菅村の青柳課長と山梨県道志村に向かう。朝、8時に自宅を出発、勝沼インターから中央道にのり都留でおりる。道坂峠をこえて道志村にはいる。役場で青柳課長と落ち合い、道志村の大田村長、佐藤企画財政課長、佐藤産業振興課長と面談する。道志村には横浜市の水源林が有り、源流域の水や森林資源を保全することの大切さ、その源流資源を流域の市民や専門家、企業などと協働で保全することの重要さ、源流域の市町村が協力し合うことの大切さについて認識が一致し、ともに源流の郷の活性化のために協力し合うことで意見が一致した。とくに流域単位の取り組み、流域の視点に立った取り組みをそれぞれの流域の特徴を生かしながらすすめ、その経験を交流しあうことを誓い合った。
 小菅村に戻り、全国源流の郷協議会の日程と役割分担などの相談を役場と源流研究所のメンバーで行った。

「命の源の供給源−源流の環境保全」(12)

流域管理へ三多摩を編入する

 明治19年に、東京府をはじめ、全国的にコレラが流行し、東京だけでも一万人の患者が命を失ったが、多摩川流域では、玉川上水上流の神奈川県西摩郡長淵村(現青梅市)で、患者の排泄物が多摩川に投下されたとのうわさが瞬く間に府内に広まり、水を飲んでいる東京市民は恐怖のどん底に突き落とされ、大混乱に陥るという事件が発生した。水は上流下流が連続しているわけで、水というものは、上流から下流まで一体として管理しなければならないということの重要性が浮き彫りにされたのである。さらにコレラ事件に追い討ちをかけるように、明治24年、神奈川県は東京府に何の相談もしないうちに、郡内の山林所有者の要望にこたえるため、三多摩地方の保安林の指定を解除する決定を下したため、水源地域の森林が伐採される時が目前に迫ってきたのである。
 このままでは、多摩川流域の水源林が保全できないとの危機感から、東京府は、水源管理の観点から多摩川上流の地域を東京府に編入すべきであると時の内務大臣井上馨に上申した。幸いにも、内海神奈川県知事も東京府の立場を理解し、多磨三郡を管轄替えすべきであると内務省に報告したため、政府は「三多摩編入に関する法案」を衆議院に提出し、紆余曲折をえながらも昭和26年4月、「東京神奈川境域変更法案」は本会議で可決され、三多摩は東京府に編入され、現在の東京都の容を整えたわけである。不十分さを残したとはいえ、流域管理へ一歩大きく前に踏み出したといえよう。


2005年11月14日(月)[13:44:44]  
今年の紅葉は、良いのか悪いのか判断に迷うことがある。天候不順により大抵のモミジやカエデが色がくすんだり葉っぱが縮れたりとあまりぱっとしないものが多い中にあって、柳沢川沿いのモミジは、それは鮮やかである。昨年はそれほど関心を引かなかったが今年の色合いや存在感は凄いの一言である。青梅街道沿いなので車の往来が激しくゆっくりカメラを向ける余裕がないのが残念であるが、車窓から眺める景色は格別である。紅葉の命というか盛りというかその期間は長くて3日間。今年もこのモミジの季節は過ぎた。怠けていた源流日記をせっせっと付けている。

「命の源の供給源−源流の環境保全」(11)

流域管理の仕組みが近代化の中で崩壊

 明治に入ると源流域の森林を巡る事情が大きく変化してきた。明治政府は、欧米の列強からの抑圧と隷属を断ち切るため、富国強兵政策のもと、西洋文明を積極的に取り入れ、多くの欧米の技術者を招聘するなど工業化への道を歩き始めた。農村では大地主や不在地主による土地の所有がまかり通り、農民は高額の小作料を払わされるなど江戸時代からの封建的な生産関係や人間関係が広範に残された。また、森林行政もおろそかにされたため、木材の討伐、乱伐、開墾、焼畑などが横行し、源流域の森林は、荒廃の一途をたどった。工業化、都市化の政策のもと、農村や山村は軽視されたのである。
 さらに、廃藩置県や郡区町村編成法などの公布によって、流域が東京府と山梨県に分割され、一方玉川上水の周辺の西、南、北の多磨三郡は、神奈川県に帰属するところとなった。このため、森林行政と水源地政策は一層の混乱を生じることとなった。この結果江戸時代から続いた多摩川を流域として管理し保全する仕組みが、日本の近代化の中で見事に崩壊していったのである。


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