文明の源流日記


2001年12月||2002年1月||2002年2月||2002年3月||2002年4月||2002年5月||2002年6月||2002年7月||2002年8月||2002年9月||2002年10月||2002年11月||2002年12月||2003年1月||2003年2月||2003年3月||2003年4月||2003年5月||2003年6月||2003年7月||2003年8月||2003年9月||2003年10月||2003年11月||2003年12月||2004年1月||2004年2月||2004年3月||2004年4月||2004年5月||2004年6月||2004年7月||2004年8月||2004年9月||2004年10月||2004年11月||2004年12月||2005年1月||2005年2月||2005年7月||2005年10月||2005年11月||2006年1月||2006年2月||2006年3月||2006年4月||2006年5月||2006年6月||2006年7月||2006年8月||2006年9月||2006年10月||2006年11月||2006年12月||2007年1月||2007年2月||2007年3月||2007年4月||2007年5月||2007年6月||2007年7月||2007年8月||2007年9月||2007年10月||2007年11月||2007年12月||2008年1月||2008年2月||2008年3月||2008年4月||2008年5月||2008年6月||2008年7月||2008年8月||2008年9月||2008年10月||2009年1月||2009年7月||2009年8月||2009年9月||2009年10月||2009年11月||2009年12月||2011年1月||2011年2月||2011年3月||2011年4月||2011年5月||2011年6月||2011年7月||2011年8月||2011年9月||2011年10月||2011年11月||2011年12月||2012年1月||2012年2月||2012年3月||2012年4月||2012年5月||2012年6月||2012年7月||2012年8月

2011年7月2日(土)[00:49:52]  
源流大学の源流資源調査が実施された。小菅村の源流景観計画づくりに役立てようと景観策定委員会事務局もこの取り組みを重視し、一緒に協力して取り組んだ。この日は、東京農業大学から学生、24名に加えて宮林先生、麻生先生、矢野さんらも参加、小菅村からも黒川課長、田下拓朗君、中川哲君、青柳慶一君、NPO法人多摩源流こすげの望月徹男事務局長、景観策定委員会から、守重久一さん、守重広子さん、望月理香子さんなど35名が参加した。対象地区は、橋立、田元、東部、長作の4地区で、それぞれに分かれて、各地区のビーポイントや改善点を調査し、調査結果をまとめてそれぞれが発表した。学生の新鮮な感覚での調査にはっとさせられることが多かった。

2011年6月30日(木)[02:41:59]  
朝5時30分に起きて、源流の四季の責了・最終校正に取りかかる。何カ所も見落としがあり、第三回トレイルランの告知は参加者の定員の600名が埋まったので取りやめて大田区での源流と河口の写真展に変更する。その記事を書くのに時間がかかった。午前9時に源流体験の場所の下見にいくため水の館に加藤源久さん、鈴木君、協力隊から青柳博樹君、岡本君、井上君が参加し、川入に向かう。今年のコースは、二番堰堤と三番堰堤のあいだで実施することとし、甲斐渡戸(ケーワド)橋の淵で飛び込みが出来るように整備した。やや深さが足りないので、馬をつくり垂木をねかせ草をつめ流れをせき止めることで深さます作戦をとることとし、加藤さんのアドバイスで仕上げていった。馬はなかなかの出来栄えで途中で夕立が来た場合、どこまで耐えられるかが課題である。みんなであるいて、コケノこと、洪水のこと、イワタバコのこと、樹木のことなどの意見を出し合い、源流体験の内容を深めていった。午後には、猛烈な夕立に見舞われ、夕立の中、夜に川崎で開催される多摩川水辺の楽校連絡協議会の総会に参加した。今年は、魚の一斉調査や子どもシンポジウムなどをみんなで取り組み盛り上げていくことになった。多摩川流域には、19の水辺の楽校があるがそのうち16の水辺の楽校が参加した。終わってからの懇親会も大勢が参加して盛り上がった。源流で実施している源流体験のお得意さんなので、この水辺の楽校は源流にとっては大事な大事なお客さんという事になる。これからも源流体験に来てくれるところが増えるよう頑張るぞー。

2011年6月29日(水)[01:04:42]  
朝5時30分に目が覚める。畑の草取りをしてから朝飯を食べ、6時30分に小菅に向けて自宅を出る。柳沢峠に向かう。気温は、23度まであがっていた。日陰は快適な風が吹いている。昨日、甲府市はなんと36度まで気温が上昇したようであるが凄い気温になっている。多摩川の河口に位置する大田区が多摩川を縁として下降と源流との交流を進めたいとして、今日小菅村を訪問される。どんな交流が深まるか楽しみである。

2001年6月28日(火)[01:06:44]  
相変わらず朝早く目が覚める。6時45分にじたくをでて、柳沢峠に向かう。峠は気温18度。雲の彼方に富士山が見える。ほとんどの雪が溶け、山頂付近に幾筋かの残雪が垣間見える。今日は日本に南風が入り込み暑くなると云う。今日は、午前中は、黒川課長、鈴木君と三人で源流体験の下見である。川入の林道が大きく崩れたため、いつものところで源流体験が不可能となったため、その代わりとなる場所を探している。なかなかいい場所は見つからないが、感動して頂けるゾーンを必ず準備したい。源流体験は、源流と流域を繋ぐ重要な架け橋になっている。今日も頑張るぞー。午前8時30分に黒川課長と、鈴木君と3人で源流体験の下見に向かう。今日は、余沢の日陰橋から流れをさかのぼり、蛇石につく。左岸はオーバーハングした岩を見上げながら激しい流れにたたずんだ。蛇石の付近は深い淵あり、激しい瀬あり、大きく播いた流れありと結構変化に富んでいた。しかし、なんと言っても距離が短い、源流部ではなく小菅村の集落の下流である点が難点である。黒川課長と鈴木君と色々相談して結局源流域でやろうと言う結論になり明後日改めて、下見に行くことになった。

2001年6月27日(月)[02:23:58]  
朝、5時45分に目が覚める。源流の四季の校正に取りかかる。これまで、どうしても文字が多くて、読みづらいとの声が多かったので、原点に戻って縦15文字を守ることにして文章をコンパクトにまとめる努力した。そのためには、文章を短くするための工夫が大変で、一つ一つの文章を推敲していかなければならなくなり、結構大変な作業が続くことになる。今日は、夜にNPO法人多摩源流こすげの総会が予定されている。それに向けてのまとめもやらなければならない。色々仕事が待っている。頑張るぞー。午前中は、景観計画づくり二関するまとめをやる。3月2日、NPO法人多摩源流こすげの役員会で景観計画づくりを村から受託することを承認、4月12日、景観委員の公募開始、5月9日、第1回景観委員会と学習会を開催、5月24日、第2回景観委員会、6月4日、源流大学景観日ユーマップづくり体験、6月13日、先進地景観研修などと全体の流れを整理した。苗木づくりプロジェクトも同様に流れを整理した。まとめてみると動きがよく分かるものである。活動し活動をまとめ、成果と問題点を明らかなして今後の方針を決めていくこと。これはどんな活動でも鉄則である。

2001年6月25日(日)[02:15:43]  
埼玉県長瀞町で実施された河川環境管理財団の職員対象の研修会に講師として招かれたので、「川と人、社会、文化の関わり」をテーマとした講演を行った。内容は、我々が川を対象として様々なイベントを実施する際、対象とする川、多摩川であれば、先ず多摩川の歴史や文化などの基礎的な情報をしっかり把握して、その多摩川の特性を活かした活動を展開する必要があるので、その事例として、多摩川の特性を始めに紹介した。そのあと、人間と川、自然との関わりに関して、その最前線に位置する源流に関して、人間と人々がどんな関係を築いてきたか、どんな歴史や文化が残されてきたかについて、小菅村の源流研究所の活動を通してつかんだことを詳しくお話しした。特に、源流の森と玉川上水との関わり、源流を軽んずると源流に泣かされることを詳しく話した。以下当日活用したレジュメである。参加者の反応は大変よかったとの感想を頂いた。まあ、これも少々大目に見て頂いたのであろうが。少し長くてわかりにくいので、時間のあるとき、読んで下され。

源流学基礎講座 源流に学び、源流に生きる
=川と人、社会、文化の関わり=
2011年6月26日
多摩川源流研究所 所長 中村文明

(1)多摩川を守る四百年の人々の歩み 多摩川の特性を知る

1590年  8月 家康、江戸打入り 多摩川の運命が大きく転換
 徳川家康 旧領地 三河 駿河、甲斐、信濃の5ヶ国を離れ、新たに江戸を根拠地に定める。これを「江戸打入り」と呼んでいる。
家康が江戸に足を踏み入れてから13年後 1603年に江戸幕府が開かる
 このため多摩川は、東国の普通の川から脱皮して日本の政治・経済・文化の中心に、都市の水資源を支える重要な役割を担わされる川へと大きく変貌することになる。日本の政治・経済・文化の中心を支える川へ変貌する。

徳川家康の江戸づくり
 第一に土木工事 堀を掘って疎通し彫り上げた土で埋立地をつくり人々を集める。諸大名を動員して江戸の町づくり 尾張町、加賀町、出雲町 担当した国名
 第二に上水の開設 埋立によって造成された江戸の市街地は、井戸を掘っても塩分が多いため、飲料に適せず上水の開設がどうしても必要だった。神田上水
 第三に新田開発 年貢を増やすための新田開発、二ヶ領用水、六郷用水。

1635年 家光 参勤交代制度の確立幕藩体制が整い、参勤交代が始まると江戸の人口はみるみる増加した。急激な発展に伴い江戸府内では飲料水の不足が大きな課題になった。

1653年 玉川上水の開設と水喰土
 このため江戸幕府は、多摩川に水源を求め、玉川上水の開設を決意。多磨郡羽村から府内大木戸(現在の渋谷区)までの約10里(43`)の水路の建設事業に取り掛かった。翌年には多摩川の水を府内に通水するという離れ業をや   り終え、こうして多摩川の水が江戸庶民の生活と暮らしを支えることになった。
距離  43キロ 標高差 83b     
  勾配 100b掘って21a低くする。500分の1
 上水の取り入れ口  投渡堰(なげわたしぜき)投渡木と筏通場
 江戸時代に33の分水 新たな新田が各地に生まれる。 
二度の失敗 青柳村(国立市)福生村(福生市) 水喰土という地名  
 徳川幕府、上流域を天領と定め「お止め山」として保護
また、江戸幕府は新田開発を積極的に推進し、武蔵野台地にも80を数える新田の村々が成立したが、これらの新田の用水も玉川上水に依存していたので、多摩川は飲料水として、また田畑の灌漑用水としてその役割は一段と重要性を増していった。江戸幕府は、なによりも玉川上水の安定水量を確保するため、多摩川上流一帯の規制策をしいていった。とくに源流・上流の森林の多くは「お止め山」としてその森林の伐採を禁止し、周辺の焼畑や開墾も厳しく制限する森林保護政策を推し進めた。このため、多摩川の源流域は、江戸時代を通して鬱蒼とした森林が広範に保たれた。

 流域管理の仕組みが近代化の中で崩壊
 明治に入ると源流域の森林を巡る事情が大きく変化してきた。玉川上水の周辺の西、南、北の多磨三郡は、神奈川県に帰属するところとなった。この結果江戸時代から続いた多摩川を流域として一体的に管理し保全する仕組みが、日本の近代化の中で無残にも崩壊していったのである。

1888年(明治19年 全国的にコレラが大流行
 明治19年に、東京府をはじめ、全国的にコレラが大流行。東京だけでも一万数千名の患者が命を失った。多摩川流域では、玉川上水上流の神奈川県西多摩郡長淵村(現青梅市)で、患者の排泄物が多摩川に投下されたとのうわさが瞬く間に府内に広まり、多摩川の水を飲んでいる東京市民は恐怖のどん底に突き落とされるという事件が発生した。

1895年(明治26年)三多摩を東京府へ編入
 このままでは、流域の水の安全性や水源林の保全が確保できないとの危機感から、東京府は、多摩川上流の地域を東京府に編入すべきであると時の内務大臣井上馨に上申した。政府によって「三多摩編入に関する法案」が衆議院に提出され、紆余曲折をえながらも「東京神奈川境域変更法案」は本会議で可決され、三多摩は東京府に編入され、多摩川流域は一体管理へ一歩前に踏み出した。

1901年(明治34年)水源地を調査し水源林経営へ
 ところで、明治の半ばに多摩川の下流域では、洪水と渇水、濁流と水不足が頻発し、多摩川の水を飲料水として利用していた東京市民にとって大きな問題となった。源流を軽んずると源流に泣かされる事態が発生したのだ。明治33年、千家東京府知事は、源流域の森林荒廃を憂慮して、東京帝国大学教授の本多静六林学博士に、多摩川水源地の現状調査を依頼した。本多教授は「水源地の森林状態は甚だ危機に瀕しており、その経営を怠れば 1)東京市の飲料水はたちまちにして欠乏をきたす事 2)府下三郡の農地数千町歩の灌漑用水に不足を生じること、 3)土砂の流亡、洪水の氾濫等により、国土保全に由々しき大事となること」 を報告書にまとめ上げ府知事に提出した。東京府は、この提言を受けて明   治34年、小菅村、丹波などの御料林を買い取り、源流域において水源林経営を開始した。

  二代目東京市長 尾崎行雄「給水百年の計」
 東京市民に直接責任を持つべき東京市がその経営にあたるべきだと決断した東京市の二代目市長の尾崎行雄は、「給水百年の計」の方針をもと、源流域の山々を次々と買い取って、本格的な水源涵養林の経営を開始した。
 現在、東京都が管理する水源林は、塩山市一ノ瀬高橋、丹波山村、小菅村、奥多摩町の4市町村の21,635ヘクタールに及ぶ面積に広がっている。

(2)源流からのメッセージ  源流の価値と可能性の探求

(1)多摩川源流に魅せられて  

   源流の美しさに魅せられ源流の虜に  
小菅村との運命的な出会い 多摩川源流研究所の設立  小菅村の決断 平成13年4月8日 
 1)源流の資源の調査・研究、データの蓄積、2)情報の発信、3)源流と中下流の交流の推進、4)森林再生プロジェクト事業 5)源流ネットワークの形成
 
(2)先人の息づかいが聞こえる
 多摩川源流絵図三部作に取り組んで
地名に先人達の暮らしや源流への思いが色濃く反映
□竜喰谷に込められた古人の思い 竜喰谷との出会い
□セングの滝(千苦ノ滝・千工の滝)の名前に込められた先人の熱い思い
□最初の一滴 水干 川の誕生のドラマに出会う

(3)感動的な「妙見五段の滝」との出会い 小菅川源流
   滝の名前の秘密にたどり着く
□谷で最も存在感のある滝には、その谷の名前をさずける
□神秘的で合掌したくなる滝には不動滝
□源頭に由緒のあるものがあればその名前を授ける
妙見の頭 賽の河原 親不知の頭 大菩薩峠 熊沢山 天狗の頭 狼平
  
(4)自然と人間の営みが融合 奥多摩・日原川
□川に刻まれた無数の地名 日原川(82)と10の支流(85)
□戸望−光射す閉ざされた集落への道
□鳴瀬、瀬波、獅子の口、安穏淵、百尋の滝、聖滝 − 自然賛歌

(5)全国の源流の姿に触れて 源流からのメッセージ
歴史に彩られた大野川   
    沈堕の滝  原尻の滝  魚住みの滝
原始の森と人口の森が共存する吉野川
裸足参りと左が踏みだしが刻まれた高津川源流
□ 長淵 オサヨ淵 お楽が滝 屏風岩 屏風浦 左が踏み出し 裸足参り 黒淵 十畳岩 粋が淵 念仏岩 犬戻り

(6)子供たちの瞳輝く「源流体験教室」感動と笑顔の体験
 本物の自然に直接触れる 日本の自然の素晴らしさが誇れる子供たちを育てる
 「源流体験教室」のねらいは、四つある。
□ 一つ目は、水の源、川の源を知る。本物の自然に触れ、川を理解する。
□ 二つ目は 源流にくれば流域を丸ごと知ることができる。源流から河口の繋がり
□ 三つ目は、「自分の安全は自分で守る」  小さい危険に向き合う
□ 四つ目は、源流の美しさと厳しさを子供たちの心に刻むこと。冒険心と好奇心。源流は無限の力で生きている 源流から勇気と元気をもらう

(7)「森林再生プロジェクト」を開始  
   国土・森のために汗をかく
□源流は、流域の宝・流域の視点 源流と中下流は密接な関係 流域意識の自覚
□戦後の一斉造林と管理放棄された人工林  間伐・枝打ちによる森林整備
□森林再生小菅方式 小菅村・源流研究所・大学・森林組合・市民の協働
□緑のボランティアを募集 一人八千円の負担 マスコミの協力
□これまでに20回の間伐を実施。1658人が源流の森へ足を運ぶ

(8)多摩川源流百年の森づくり 企業と連携した森づくり
□森林資源の循環 流域の木で家を立てる運動へ 山主へ還元
□学校・公共施設への地元材の活用  せせらぎ館の腰板 大師防災センター
□小学校・中学校の保健室を板張りへ  音楽室・図書室・教室へ拡充
□東京電力と協働で「持続可能な森林保全」を模索 自然再生協議会へ参画
□ホンダ自動車、日本たばこ、NOSが企業の森づくりへ

(9)多摩川源流大学づくり    
   流域と連携した地域づくり
□東京農業大学の現代GPを文部科学省が認可 3年間
□持続可能な循環型社会を担う環境学生を育成 体験学習
□流域の企業・自治体・大学・市民などと連携した新ビジネスづくり

(10)山と川と海の命の繋がりの復活へ   
    飲水思源を子供たちの心へ
□地球温暖化の進行と異常気象の頻発(集中豪雨の多発、熱帯夜数の増加)
□地球環境の悪化を傍観すれば現在の快適な生活が脅かされるばかりか、未来の子孫の生存環境をも危うくする事実に多くの市民が気づき始めている。       
水は命 森は源 川は絆
  山(森)・川・海の命の繋がり復活へ

2011年6月25日(土)[01:24:30]  
東京農業大学による狛江市の緑の実態調査の一環として、東野川にある樹林地の調査と活用方法に関する市民ワークショップにスタッフとして参加する。朝、野川の谷戸橋近くのセンターに集合。その調査対象の場所は、以前稲荷神社の鎮守の森として保存されてきたものの長く放置されてきたため、狛江市が買収して保存すると共に、市民に有効に活用してもらうために、宮林先生達へ調査を依頼したもの。当日は、市民12名と東京農業大学、狛江市のスタッフ12名が参加し、現地研修とセンターでのワークショップを行った。ワークショップでは、先ず現状と問題点を参加者が出し合い、その改善点、管理方法、展望などを意見交換、最後にそれぞれのグループが意見を発表し合った。なかなか活発で楽しいワークショップになった。私は、Bグループの班長してワークショップのとりまとめを行った。


トップページへ戻る